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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

【小説】ウェア・ウルフ その1



少女は、森のなかを走った。
まわりの木々が風に飛ばされるように流れていく。太陽は頭の上にあるはずだが、森のなかは夕暮れのように暗かった。
背後から、十数体もの〈コボルド〉――犬の頭をした半獣人の魔物が追ってきていた。
息があがる。じんわりと背中にかいた汗が冷えてきた。避けきれない固い木の枝が、強く頬をなぶっていった。
振り返ると、コボルドの追手は数体にまで減っていた。
このまま行けば逃げ切れる。少女はやっと安堵した。
少女の名はセリシア。森に囲まれた村〈トコリ〉の狩人だ。剣と盾の神〈イディーン〉を信奉する神官戦士でもある。
剣の腕なら、村の男にも負けない。コボルド程度の魔物なら、数体でもいっぺんに相手をする自信がある。
とはいえ、十体を超えるとなれば話はべつだ。コボルドの持つ武器は手入れなどされておらず、血と錆で汚れきっている。切れ味は悪いが天然の毒のようなものだ。斬られたところから病気になって死ぬ者もいる。
前方に、明るい空間が見えた。村へ続く道に出たのかと思ったが違った。そこは木々の切れ間の広場のようになっていた。
「……あっ!?」セリシアは目を見張った。
広場のまん中に男がいる。姿からして旅人のようだ。どこかの民族衣装だろう、変わった服装をしている。
男は何をするでもなく、日の光を受けながら空を見上げていた。
「逃げて! 魔物が追ってきている!」セリシアは叫んだ。
しかし、男は空を見ているばかりだ。
「ほら! はやくっ!」
セリシアは駆け寄って男の腕をとった。が、引っ張っても男はびくともしない。それどころか、力なくしゃがみ込んでしまった。
「何してるの!?」セリシアは声をあげた。
男は、か細い声でいった。
「は……、腹がへって……。体が……動かない……」
「魔物が来るのよ!?」
セリシアは振り返った。
木々の間を抜けて、コボルドたちが近づいてきていた。
「……仕方ない!」
セリシアは、肩にかけていた道具カバンを投げ捨てた。腰に帯びた白い鞘から、細身の剣をすらりと抜いた。銀色の刃が、日の光を受けて眩しく輝いた。
セリシアはコボルドに向かって、まっすぐに剣をかまえた。

1体のコボルドがセリシアに近づいた。背負っていた大ぶりの太刀を抜いて斬りかかる。血錆びで汚れた刃先が目の前に迫った。
セリシアは、すばやく一歩を踏み出して、刃をかわした。風圧がほほをかすめる。同時に剣を降り下ろした。
肉を斬るにぶい感触を剣先に感じた。
――ギャギャッ!
コボルドは叫んで太刀を落とした。痛みにもだえて地面を転がった。
セリシアは勢いを落とさず、もう1体のコボルドに向かって走った。剣先を鋭く突き出す。腹を突き刺され、コボルドは苦しげにうずくまった。
コボルドたちはひるんだ。
あと5体。しかし、不用意に動かなくなり、セリシアにとっても攻めにくくなった。
そこに、遅れてついてきた数体のコボルドが合流した。これで数は10体以上。やはり、不利な戦いになった。
セリシアは男を見た。しゃがみこんで何かをしてる。
投げ捨てたカバンを勝手に開けて、なかを探っているようだ。
「えっ……!?」
保存食を食べていた。こっちは命がけというのに、呆れたものだ。そんなに腹がへっていたのか。
しかし、たとえ変な人としても、巻き添えで見殺しにはできない。
セリシアは「剣と盾の神」〈イディーン〉に仕える神官だ。イディーンは、魔物に襲われた旅人を助けたという神話から、「人々を魔物から護る神」として崇められている。
セリシアは、汗ばんだ剣の柄を握りなおした。
体の大きなコボルドがセリシアに迫った。太刀が鋭く振り下ろされる。剣で受け止めた。耳を突く金属音がひびいた。
「ガアァッ!!」コボルドが吠えた。
大きく開いた口から、血で汚れた牙と、真っ赤な舌が見えた。獣くさい息が顔にかかった。
「くっ……!!」
力が強い。村のまわりに出る並みのコボルドよりも、明らかに強い個体だ。
さらに、数体のコボルドがセリシアを取り囲んだ。
一旦、引いてから体勢を立てなおさなくては――。
セリシアがその場を飛び退くと、コボルドはわずかに体勢を崩した。その隙をつき、再び剣を構えて飛び込んだ。
と、そのとき、
「――クオオオオォォォォォッッ!!」
突然、近くで、驚くほど大きな声がした。オオカミの咆哮のようだ。後ろにいる男が発したものらしかった。が、とても人間の声とは思えない。
音圧に押される。セリシアは倒れそうになるのを、片手をついてこらえた。コボルドたちも、足を踏んばって動けないようだった。
「オオオオオォォォォォッッ!!」
鳴き声は続いた。
あたりの草や木が、音を受けて小刻みに震えている。そればかりか、大地までが揺れている気がした。
セリシアの体も共鳴するように震えた。自由が効かない。思わず、剣を取り落としそうになった。
「オオオオォォォォォンッッ!!」
鳴き声が止んだ。
森のなかは物音ひとつせず、かえって異常なほど静けさになった。
セリシアもコボルドも、あっけにとられて男を見ていた。
コボルドたちは、戸惑ったように顔を見合わせた。かすれた声で鳴くと、追われるように森へ逃げていった。



「今の……魔法でもつかったの?」
セリシアは、男の顔をまじまじとながめた。「魔法なんて、大きな都市にいる高い位の魔法使いや、司祭しか使えないって言うけど……」
男は立ち上がった。
「魔法じゃない。特技だ」
「びっくりした……。すごい特技ね……」
指先には、さっきの震えが残っている気がした。見せないように後ろ手を組みながら、セリシアは言った。
「なんにしろ助かったわ。ありがとう」
「いや。俺も助かった」
セリシアは、落ちていたカバンを拾い上げた。
「勝手に、保存食を食べられちゃうとは思わなかったけど……」
「すまん。もう3日も、まともに食べてなくてな……」
男の表情には旅の疲れがありありと見えた。道に迷ったのだろう。歳は自分より少し上のようだ。真っ黒な髪と瞳が、異国の人間であることを示していた。
「私はセリシア。あなたは?」
「……アーク」
「どこから来たの? ここらへんの人じゃないみたいだけど――」
「あ……あぁ……」
アークは、定まらない視線を宙に流した。ゆっくり口を開くと言った。
「東にある大きな港町から逃げてきた。――魔物の大軍が攻めてきたんだ」
「えぇっ!?」
セリシアは思わず声をあげた。「東の港町って、あのワンヒスでしょ!?」
ワンヒスは大陸の東端にある港町だ。このあたりでは、王都にならんで繁栄していた。しかし、近くの海には魔物の棲む島があり、周辺では度々、小競り合いが起きた。そのため、町では屈強な冒険者や傭兵を雇い入れ、魔物の侵攻の歯止めとしての役割をしていた。
ワンヒスの港町が魔物に侵略されたということは、セリシアの住むトコリの村にも、その脅威が迫っているということだった。
「それで、町はどうなったの!?」
「町は壊滅だ。人間は、残らず殺された……。町は炎に包まれて……。俺は、恐ろしくなって、ひとりで逃げてきたんだ」
「たいへんだわっ! 村のみんなにも知らせないと……!」
セリシアは、トコリの村の方角を見つめた。
「俺は王都まで行くつもりだった。冒険者の仕事でも見つかると思ってな。だが、夜通し歩いていたら道に迷った」
「夜に歩いたの? それはそうよ……」
「悪いが、近くの町か村に続く道まで案内してもらえないか」
「それなら、うちの村に来たらいいわ。小さいけど、一応、宿場町だし。ワンヒスのことも聞きたいしね。ただ、ここからだと歩いて丸一日以上はかかるけど」
「遠いな……。ここに来るまでに食料を食いつくしてしまったんだ」
「ああ、それなら」
セリシアは肩にかけたカバンを開いた。アークに食べられたとはいえ、数日分の食料が入っていたはずだ。しかし、カバンには旅の道具以外、入っていなかった。
「全部、食べたの!?」
「うん? 食べたが。もうないのか?」
「あるわけないでしょ……」
「それは困ったな」
「1度に食べちゃうなんて……。何日分の食料だったと思ってたのよ……」
セリシアは深く息して、肩を落とした。これまでの疲れが、急に出てきた気がした。



セリシアは弓を構えた。
矢じりの先には、生え変わったばかりの茶色い毛をした野うさぎがいた。腕に力を込めて、矢を引きしぼる。呼吸さえも気取られないよう。慎重に狙いを定め――
と、そのとき、うさぎに向かって、やる気のない放物線を描いて小石が飛んだ。小石は、うさぎの足元に、ぽそりと落ちた。うさぎは焦ったように向きを変えると、跳んで逃げていった。
「何してるのっ!?」
――ビュッ!
鋭い矢が、アークの足元に突き刺さった。
「うぉっ!?」
アークは叫んで、茂みのなかにしりもちをついた。
「あ、あぶないじゃないかっ! 殺す気か!?」
セリシアは、無視してまくし立てた。
「なんで、さっきから狩りのジャマばっかりするのかって聞いてるのよっ!」
これで3度目だった。食料を得るための狩りを、アークが寸でのところでジャマをするのだ。腹が減ったといいながら、この男は何をしているのか。まったく意味がわからず、セリシアはキレていた。
「か、かわいそうじゃないか……。あんな子うさぎを狙うなんて……」
アークは叱られてふてくされる子供のように、モゴモゴとつぶやいた。
「かわいそうって……。子うさぎだから逃げ足も遅くて、狩りやすかったのに……」
セリシアはがっくりとうなだれた。
「あなただって、お腹が減ってるって言ってたでしょう。どうするのよ、村まであと丸一日以上あるのよ。何も食べないで歩くつもり?」
アークは「草でも食うか? まずいけど……」と言って、足元の草をちぎって口にいれた。すぐにオエーと気持ち悪そうに吐き出す。
「本当に、かわいそうなのは私の方よ。もうすぐ太陽も沈むってのに。お腹を空かせたまま野宿するなんて……」
「す、すまん……」
セリシアは、アークに指差して言った。
「とにかく! もうジャマはしないでよ! 今度、ジャマをしたら……本当に……」
「わ、わかった! もうしない!」
アークは両手をあげた。



日が沈むと、森は闇のなかに入った。
セリシアとアークは、パチパチと火花をあげる、たき火をはさんで向かい合って座った。次第に広がる、ひんやりとした空気が、ほてった肌に心地いい。
ホウホウと、ふくろうの鳴き声がした。野生動物は魔物の気配に鋭い。鳴き声がするということは、近くに魔物はいないらしい。
闇のなかでは、たき火だけが、ただひとつの灯りだった。その灯りが、かえってふたりを取り残されたような気持ちにさせた。
たき火の前には、木の枝に刺さった、うさぎの肉があぶられていた。肉は、ぶつぶつと旨そうな油を垂らした。焦げたいい香りのする煙が顔をなでた。
セリシアは焼き上がったばかりの肉をひとくち食べた。肉は硬いが、十分なごちそうだと思った。
ちらりとアークを見た。
先ほどまでアークは、うさぎをしめるセリシアを後ろから恐る恐る眺めながら、時々「うぁっ!」とか「ぎゃぁっ!」だか、よくわからない悲鳴を上げていた。本当に動物を殺すのが苦手らしい。
今は渡された肉を手に、もくもくと食べている。しかし、どこか顔色がさえない。
アークが食べてしまった保存食には干し肉もあった。肉が食べれないわけではないのだろう。
「……肉は、イヤだった?」セリシアは訊いた。
「……うまいよ」アークはぼそりと答えた。
「肉を食べたりしない主義の人?」
「そんなことはない……」
「外の国から来たんでしょ? 珍しい格好しているものね。どんなところなの?」
アークは昔を思い出すような穏やかな表情をした。
「あぁ……。いいところだ。あまり自由はないが……。活気があって、仲間もいた」
しかし、すぐに厳しい顔つきになると、たき火の炎をにらみながら言った。
「でも、出てきた。毎日、戦いばかりでイヤになった。もう戻るつもりはない」
「そうなんだ……。どこにでも争いってあるのね……」
ふたりが静かになると、あたりは動物の声が大きくなった。
ふっと、セリシアは微笑んだ。
「……ん?」アークは不思議そうに見た。
「ごめんなさい。ちょっと、思い出し笑いをしちゃって」セリシアは言った。「そういえば、私にもあったなって……」
「何がだ?」
「動物を殺してまで食べたくないって泣いたこと。子供のころの話だけど――」
「そうか……」
「何の記念日だったかな。お父さんが卵の産めなくなった、にわとりを食べようって言って。私が世話をしていたものだから、可哀想だって泣いて大騒ぎして……」
セリシアは、たき火の炎を眺めながら続けた。
「あんまりしつこいものだから、とうとう司祭さまに話をしてもらうことになってね。神殿にまで行って、そこで――」
セリシアは照れくさくなって思わず笑った。
「なんて言われたんだ?」アークはうながした。
「――動物の命を取るのは、たしかに可哀想なことだ。でも、その分、人のため、社会のために正しく生きればいいんだよ――と、教えていただいたわ」
「……ふぅん」
――バチッバチッ! と、たき火にくべられた太い薪が、ひときわ大きな音を立ててはぜた。ゴトッという音とともに折れ、火の粉が吹き上がった。
「――でも、動物と魔物はちがうわ。やつらを放っておけば、たくさんの罪もない人たちが殺されてしまう。だから、私は魔物と戦う。それが、正しい生き方だと信じているから……」
アークは黙って炎を見つめていた。
「もう休みましょう……。明日は日の出から歩かないと……」
セリシアは目を閉じた。
アークは、まだ何かを言いたそうにしていた。しかし、セリシアは、日中の疲れと炎の暖かさに耐えきれず眠っていた。



翌朝、あたりが暗いうちにセリシアは目覚めた。
アークは苦しそうにひざを抱えて、眠りこけている。肩を揺さぶっても、うめくだけで起きようとしない。
セリシアは言った。
「もう朝よ。ねぇ、起きてってば」
「うううぅ……。うるさい……」
アークは、とてつもない不幸でもあったかのような顔で言った。
どこか、森の奥のほうで、糸のような細いものがキレる音が聞こえた。
「……起きろっ!!」
セリシアが怒鳴ると、アークはビクッと体を震わせた。しかし、そのまま倒れると横になった。
《このまま置いていこうか……》セリシアは思った。
試しに、アークの片脚を持って歩いてみた。とんでもなく重い。鉛のようだ。2、3歩あるいたところで放り出した。
アークは起きなかった。
「どうすりゃいいのよ、これ……」
セリシアはため息をついた。



昼頃、アークはやっと目が覚めたのか、普通に歩きだした。 それまでの幼児と歩くようなもどかしさに、よく自分が耐えたものだとセリシアは思った。
翌日の夜になって、ようやくふたりはトコリの村についた。
あたりはすっかり暗くなっていた。しかし、村の入り口には、背丈ほどもある大きな、かがり火がいくつも焚かれ、異様なほどの明るさだった。
切り出したばかりの丸太を地面に突き刺し、板でつなげただけの柵が村を取り囲んでいる。入り口には、武装した見張りが立っていた。戦いでも始まるかのような物々しさだ。
「おぃぃ!? セリシアか!?」
門番のひとり、若い男が声をあげた。「無事だったか! みんな、心配してたんだぞ!? まさか、本当にひとりでいっちまうなんて……」
「ホルスじゃない! あなたが見張りだったのね!」
セリシアは近づいて言った。「ごめんね。心配をかけて……。でも、平気よ。偵察に行っただけだから。それより、村はなんともない?」
「村は大丈夫さ。俺が守っているからな」ホルスは、声を落とした。「――で、討伐隊は? 手がかりは、何か見つかったのか?」
「それが……」セリシアはうつ向いて言った。「何の手がかりも……。砦まで行ったけど、見張りに見つかって、なかには入れなかったわ……」
「やっぱり、やられちまったのかな……」
セリシアは、思い詰めている様子で黙った。
「ご、ごめん……。セリシアの親父さんも……」
セリシアは首を振った。「……心配なのは、みんな同じだから」
ホルスは、アークを見ると言った。「……で、こいつは?」
セリシアは、アークとのいきさつを話した。
「コボルドに襲われたぁっ!? ケガはなかったのか!?」
「大丈夫よ。アークにも助けられたし。ね?」
「ん? あぁ……」
「む。それじゃあ、礼を言わないといけないな」ホルスは、なぜか胸をはった。
「そうだ! ワンヒスの港町が魔物に襲われたっていうのよ! 情報は届いている?」
「あ、ああ……。行商人が来て、そんな話をしていったらしい。尾ひれのついた噂ぐらいに思っていたんだが、本当だったんだな……」
「村の近くに魔物が砦を作ったこととも関係しているのかも……」
「警戒を強めないとな。でも、ワンヒスを落としたような魔物に襲われでもしたら、こんな村、ひとたまりもないぜ……」
セリシアとホルスは口をつぐんだ。ひんやりとした夜風が肌をなでた。
「あ、アークの泊まるところがいるわね」
セリシアが思い出したように言った。「お金があるなら宿もあるけど――」
アークは両手を広げて、「もってない」
「宿には応援の部隊が入っていて、いっぱいだぞ」ホルスが言った。
「そうね。なら――」セリシアが言おうとしたとき、
「セリシアの家はダメだからな。今、親父さんがいないんだから」ホルスが口をはさんだ。
「――神殿がいいって言おうとしたのよ。いいでしょ? 司祭さまに話してあげる」
「かまわない」アークはうなずいた。
「じゃあ、行きましょう」
アークはセリシアの案内で、村の中心にある神殿に向かった。



あたりが暗いせいで神殿の外観は見えなかった。
セリシアは大きな扉からなかに入り、しばらくして出てきた。神殿の司祭に話をつけてくれたという。セリシアと別れ、アークはひとり、なかに入った。
白っぽい石壁が燭台の灯りに照らされ、ほのかに明るい。通路を抜けると広間に出た。長い椅子がいくつも並べられている。礼拝堂のようだ。正面の壁には、真っ白い巨大な神像が埋め込まれていた。
神像は女の姿をしていた。〈イディーン〉は女神だった。右手に細身の剣を、左手には盾を持っている。ドレスのような服を着ており、防具はつけていない。顔だけは面当てのようなもので覆われて見えなかった。
「イディーンは珍しいかい?」
背後から、間のびしたような声がした。
振り向くと、白い髭をたらした老人が立っていた。神殿の司祭だろう。顔がゆであがったように赤い。
「人が来るとは思わんかったから、一杯やっていたところだよ」
司祭は愉快そうに笑った。
「申し訳ない。突然、押しかけてしまって」アークは言った。
「いいよ、いいよ。困ったときはお互いさまだ。セリシアを魔物から助けてくれたんだってな。ありがとう」
「いや、俺も助けられたんだ」
「イディーンの像を見ていたな」老司祭は像を仰ぎ見た。
「俺の国にはなかった」
「あんた、外の国から来たらしいな。どうだい、イディーンに入信せんかね? 若い人は大歓迎だよ」司祭は赤い顔で笑った。
「宗教のことはわからないんだ……」
「イディーンは、この大陸じゃあ、有名な神さまだ」
老司祭は、真っ白な髭をなでつけながら言った。「人々を魔物から護ってくださる。神官には、優秀な戦士も多い。セリシアも、うちの神官だ」
「魔物と戦う神さまか」
「そうだ。人間の信仰する三柱のなかでも、特に魔物に対して妥協がない。急先鋒みたいなもんだな」
「なら、魔物がこの神を信仰したら、どうなるんだ?」
「んんっ?」
老司祭は、充血した小さな目を開いた。天井を見つめて、たっぷりと沈黙したあとに言った。
「考えたことがないなぁ……。魔物には魔物の神がおるから、改宗するとは思えんが……」
「魔物にだって、いろんなヤツがいるだろう」
「それはそうだな。人間にだって魔物のようなヤツはおるからな」老司祭は口の端をゆがめた。「……おっと、こんなことをワシが言ったなんて、みんなには言わんでくれよ」
司祭は真面目な顔になって「そもそも、お前さん、神々の系譜は知っているか?」と、尋ねた。
「けいふ?」
「神さまの家系図だな。我ら人間の信仰する三柱を含む、すべての神は、世界の創造神であられる〈オズ〉につくられたとされている。魔物の神もそうだ。つまり、人間の神と魔物の神は、親戚の関係になるな」
「知らなかった」
老司祭は髭をなでながら続けた。「オズは世界を創成するとき、正しい心を集めて人間を、悪い心を集めて魔物をつくったとされている。人間と魔物も、もとをたどれば兄弟みたいなものだったんだ」
「……兄弟なのに、争い合っているのか。神さえも」
「そうだな。しかし――」
老司祭はアークを見据えると言った。
「どうして創造神は、人間だけでなく魔物をつくったんだろうな。この世界に人間しかいなければ、さぞや住みやすかったとは思わないか?」
「……どうしてだ」アークは訊いた。
「……それは、だれにもわからん。だが、わしは思うんだ。魔物の存在にも何らかの意味があるからこそ、神は人間だけではなく、魔物も創ったのではないか――と」
「意味?」
「そうだ。……おっと」老司祭はまわりを見渡したあと、「こんなことをわしが言っていたなんて、だれにも言わんでくれよ。教団にバレると仕事がなくなっちまうからな。ファファファッ」と、楽しそうに笑った。
「言わないさ」アークも笑った。
「さあ、話していたら遅くなっちまったな。もう寝なさい。部屋は客室を空けておる」
「腹がへっているんだが……」
「おおっ! そうだったな。セリシアにも言われておったわ。簡単だが、食事の用意しもておいたぞ」
「すまない。宿代のかわりに、何かできることがあったら言ってくれ」
「うむ、そのつもりじゃ」
老司祭は、一転して憂えるように白い眉毛を額に寄せた。
「そうだな。村の者でもないお前さんに、こんなことを頼むのもなんだが……」
「何だ?」
「セリシアのことじゃ。あの娘がひとりで危険なことをしないよう、あんたからも言ってもらえんか。村の者の言うことなど、もう聞きやせん」
「何かあったのか?」
「あったばかりだ」老司祭は深刻そうに声を落とすと言った。
「近頃、村の近くに魔物が〈砦〉をつくってな。討伐隊を向かわせたんだが、ひとりとして帰ってこんのよ。隊にはセリシアの父親もおってな。心配するあまり、手がかりを探すなどと言って、ひとりで砦に行ったらしい。あんたと会ったのも、そこから戻る途中だったらしいな」
「そうだったのか……」
「セリシアは、幼い頃に母親を魔物に殺されておってな。魔物を憎む気持ちは人一倍、強いんじゃ」
「母親を……」
「もう、10数年も前のことだ。そのうえ、父まで失ったとなるとな……。セリシアが無茶なことをしないよう、見ていてもらえんか。旅の人に、こんなことを頼むのは気が引けるんじゃが……」
「わかった。俺からも言ってみよう」
「うむ。助かるよ。――さあ、遅くなったな。食事にしよう」



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